人生谷あり底あり

うつ病休職歴あり、自殺未遂歴あり。 2020年6月に早期退職しました。これにより名実ともに負け組になった初老親父の無駄口です...

カテゴリ: 休職中の日々

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退職後の東京での生活はとても居心地の悪いものになる覚悟はしてましたが、予想以上に最悪です。
そのことはまた別の機会に書くとして、退職の3日前に休職中のおじさんと飲んだことを書きます。

自分のいた会社のフロアは、常に数人が休職してて、毎年一人位は挫折退職者がいましたが、去年6月からずっと休み続けてるおじさんがいました。
その人が休職延長の手続きに会社に来た時に私の退職を知ったらしく、
「話があるので、飲みに行きたい。都合を教えて。」
と言われたのでした。

このおじさんは約10年前から鬱病による休職復職を繰り返している。回復はせずむしろ悪化してる感じ。
私が7年前に休職したことも知ってて、それが鬱病のせいだということも直感的に察したのだろう。同類の人間だという思いから最後別れる前に誘ってくれたようです。

焼き鳥屋で2時間以上話した。
そのおじさんの鬱の歴史。

かつては品質管理部門で係長をしてて、部下を査定する立場だったらしい。その頃客先不良のトラブル対応等々の激務から過呼吸になって体が動かなくなる恐怖を度々経験したとのこと。
その後本人の希望で支社営業や関連会社出向等を経験したが体調不良は一向に治らず、休みがちになる。
この時、2度自殺未遂をしたそうである。
迷惑にならないようにと墓で首を吊ろうとしたが、適切な木の枝が無く、上手く行かなかったとのこと。
私と違ってその時のことは覚えてるらしい。。

関連会社で度々休んでると、呆れた会社から出向解除して欲しいと言われ、今の会社に戻る。その際、「やってもやらなくてもどうでも良い仕事」を新上司にあてがわれた。
その仕事は後に私が引き継ぐことになる。

どうでも良い仕事は楽なはずだが、1度壊れてしまった心身は2度と回復しない。
その後も休みがちな日々を送り、さらにどうでも良い安全衛生だけを仕事とする職に異動となり役職も課長代理からヒラに落ちる。
その直前あたりに私がこの職場に転入してくるのでした。

このおじさん、私を同類と思ってくれてるようだが、違う。
この人は管理職まで出世したし、子供3人を自立させたし、高専を出て35年以上働いて来た人。堂々と早期リタイアして良い人である。
30年も働けずに逃げ出したクズ人間の私とは違う。
似ているところは契約社員の奥さんになじられて、嫌気が差してるところである。
彼は離婚したいそうだが、奥さんは退職金をぶん取るまでは離婚しないと言ってるそうだ。
旦那はATM。典型的な日本の夫婦の在り方である。。

私が約7年在籍してたうち、彼は半分以上は休んでたと思う。
会社規則では再来年の3月までは休職し続けられるらしい。
制限一杯まではいるつもりはないが、あと一年休んで退職するつもりだ。
退職後は離婚してニートになるつもり。職場復帰は無い。
と、彼は生ビールを何倍も飲みながら言ってました。

会社のせいでそういう体になってしまったのだから、休職制度を最大限利用すれば良いと思う。
というか、新型コロナのおかげで誰もが長くは生きられない可能性も高いのだし。

という感じで、救いの無いお別れ飲み会をしました。
もう会うことは無いけど、無事退職&離婚出来ますように。

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私は会社で未だに定期的に産業医の面談を受けている。
鬱病休職歴のある奴はたぶん会社辞めるまでずっと面談が義務になる。

自殺未遂した時は今とは違う産業医だった。
私が広島に転籍になる直前あたりに高齢の産業医が病死したらしく、入社時は東京本社の産業医(これも高齢のジジイ)が週1で掛け持ちで産業医をやってた。

仕事から逃げたくて、とにかく休職したくて当時その掛け持ち産業医の面談を受けた。
「君は病気になって休職したいんだろうけど、これは環境不適応だ。今の仕事を変わらない限り状況は改善されない。病気ではない。」
と、本当のことをピタリと言い当てられた。
演技もばれていた。
私は「わかりました。退職します。」
と答えたと思う。

その後、自殺未遂したのは自分の意思か、錯乱状態がそうさせたかは定かじゃないが、この産業医への当て付けも無意識にあったのかも知れない。

休職後、復職面談を受けに行った時、この産業医は烈火のごとく怒っていた。
自分の診断を反故にして力ずくで休職したと思われたのだろう。実際それに近いし。
なかなか復職を許可しなかった。きっと永久に許可したくなかっただろうが、主治医の許可に値する診断書もあったので、最後は渋々許可した。
「2度とあんなことはしないとここで約束しなさい」
と言われた。しねーよ!と思いながら従った。
付き添いのような形で同席してた総務の若い女子社員は私をゴミを見るような目付きで見ていた。

復職して間もなく産業医が変わった。
募集して採用されたらしい。30代と思われる若い女医だった。

この女医との面談は、私が何を言ってもうんうんと肯定して同調するような感じで、いつも短時間で終わった。こんな面談だったら俺でも出来るわ、と内心思った。

先日、来年度中に辞めるつもりであることを話した時も、驚くこともなく、そうですか、で終わった。
「上司から引き留められても、毅然とするように」と逆に辞めることを応援された。
きっと、面談する相手が1人でも減ることが大歓迎なのだろう。

「辞めて東京で何をするのですか?」
と聞かれたが、
「大きなお世話です。」
と答えた。
また3カ月後ぐらいに面談があるらしい。もう辞めるのに。
 

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
死にかけた日から2年が過ぎました。
2年前の今頃はまだ意識不明だった。
救急病院でいろんな処置をされていた。
三途の川を渡りかけてたのかな。
いつの間にか尿道に管が通されていた。

本当なら今頃3回忌が行われていたかなぁ。
自殺するような奴は法事なんかしてもらえないか。。

あの後三ヶ月に及ぶ精神病院での入院。
退院後の四ヶ月に及ぶ自宅療養。
いくら希望しても復帰させてくれない産業医。

まだまだ思い出にするには辛過ぎる記憶です。
また同じ状況に舞い戻る可能性も充分あるし。

あの時見舞に来た姉から、高校野球で浦和学院が優勝したことを
知らされたっけ。。。
当然ながらそんなことには興味は全く向いていなかったが。

今年も同様に浦和学院が強い。
多分優勝するだろう。
なんか嫌な巡り合わせだ。

一年前の今頃、精神病院を退院しました。
その後自宅でニート生活すること約四ヶ月。

ニートをしてた父親を見て、娘は何を思っただろう?
こんな父親を見せては、娘がダメになってしまうと思って、
回復してないのにしてるふりをして四ヶ月でなんとか復帰した。

あれから今まで八ヶ月。なんとか会社には行けてます。

娘が受験に失敗しないで本当に良かった。
もし失敗したら、確実に自分のせいだった。
もしそうなったら、全財産を妻に渡して、自分はこの家庭から去るつもりでした。

幸い今のところは去らずに済んでいる。
今後どうなるかわからんが。

今年最後の日は、6月〜10月に自宅療養してた頃の記憶を書きます。

入院中は行動が制限されていたが、退院後はその制限もなくなり、
楽になったかと思いきや、、、
妻はパートで働き、娘は勉強漬け。
肩身が狭くて、入院時以上に居心地が悪い日々でした。

最初の数週間は入院時と同様、ほぼ寝たきりでした。
その後は少しづつ起きて家事をしたり、図書館に通ったり、
ウォーキングをしたりして過ごしました。

通院は週に一度だけ。
主治医の都合でそうなったのだろうけど、
おかげで週6日は無駄に過ごし、休職が徒らに長引きました。

あの頃、暇なので図書館で本を沢山読みました。
本来なら仕事に関係ある本でも読むべきだが、もう復帰はできないだろうと思っていたので小説ばかり読みました。

面白い本もいくつか読みましたが、、、
人が働いている間に、仕事休んでこんなことしてるという後ろめたさが大きく、あまり堪能できなかった。

面白いと思った本は
ジェノサイド(高野和明)
赤い指、麒麟の翼(東野圭吾)
など、
イマイチだったのは
悪の教典(貴志祐介)
ひどい内容だけど妙に惹かれたのが
苦役列車(西村賢太)
っていう感じでした。

苦役列車は直木賞受賞作で作者の自伝的小説です。
父親が婦女暴行で服役し、あわてて家族で引越しし、中学途中から学校へ行くのを辞め、
日雇いで小金を貯めてはソープに行く。
そんな話でした。

自分も家庭環境が悪かったらこんな生活したかも知れないなぁと、妙に感慨深かった。
でも彼の小説はもう二度と読まない。

ちなみに作者は、そんなその日暮らしを30年ぐらい続け、貯金が多くても数十万だったのが、直木賞で一気に億万長者になったそうである。

というわけで良いお年を。

入院中の生活は、自由な時間は山ほどあった
けど、行動の自由は極端に制限されていました。

お金は持てない。携帯はもちろんダメ。
爪切りや髭剃りさえ取り上げられる。
髭剃りは日に一回、介護士が持ってくるのを待ってするしかない。
ベルトも取り上げられる。
これで首を吊るかもしれないから。
精神異常者はそういう扱いである。

することと言えば、廊下を徘徊するか、共有スペースでテレビを見るか、
唯一持ち込みが許されているラジオを部屋で聴くか、ぐらい。
自分は部屋に閉じこもってラジオを付けてることが多かった。

たいして聴きたくもないけど、ナイターを毎日のように聴き、
昼間の帯番組を聴き、(赤江珠緒や吉田照美や週末の久米宏や爆笑問題など)

でも、当たり前のことだが、ラジオの向こうの人々は皆働いている。
自分は働いてない。
そう思うといたたまれなくなって消すこともしばしば。。。
今では当時のことを思い出してしまうので、ラジオは一切聞かない。

ずっとベッドで寝転んであまりにも動かないので、退院後四十肩になってしまった。
今でも治っていない。

肝心の治療について、
10月に広島の病院に変わるまで、約半年に渡って東京の病院の主治医と心理士と付き合ったことになる。
効果はあったのか?二人のおかげで7か月の休職で済んだのか?

正直、精神科医、心理士は何の助けにもならなかったと思う。
回復したのは大部分は時間の経過によるものだと思う。

薬(特に睡眠薬)はそれなりに役に立った。
睡眠薬は今でも手放せない(今後も一生手放せないだろう)

認知行動療法というのをやったが、何の意味も無かった。
考え方を変える訓練なんて、怪しい宗教じゃあるまいし、そんなことしたって辛い仕事が楽になるわけもなく、無能な人間が突如有能になるわけもない。

主治医は、
「来年の春頃にまた同じことを繰り返すような気がする。」
と、不気味な予言をした。。。

何の役にも立たなかった主治医だが、
この予言だけはきっと当たるような気がする。
これは運命のようなものかも知れない。

精神科入院中の生活は、簡単に言えば
「労働の無い刑務所」
でした。

部屋は個室、四人部屋、八人部屋があった。
八人部屋などはとても人間扱いとは言えない酷い環境ですが、恐らく生活保護を受けてるような人達が入ってると思われた。

自分は個室に入ったが、おかげで部屋代が一日五千円以上もして大出費だった。

食事は三食出たが、病院食なのでうまくは無い。しかも食器がとても古くて傷だらけで、見るからにまずそうだった。
患者に対する病院の態度の表れなのだろう。
一番まともな食事は朝ごはんの食パンにマーガリンとジャムをぬったものだった。

入浴は週にたったの二回のみ。
夏前に退院したが、夏になっても週二回だったら自分は耐えられなかっただろう。
入浴と言っても、オムツをしてる老人達と一緒に入るので、湯船には決して入らずシャワーのみだった。

他には週二回運動療法があった。
と言っても自転車マシンを漕ぐだけで、20分ほどで終わってしまう。

治療らしいことは主治医の診察が週一回15分ぐらい、心理士のカウンセリングが週一回40分ぐらい。
看護士による体温血圧脈拍測定が毎日五分ほど。

基本的にやることはこれぐらいで、あとは自由でした。
自由と言っても、外出不可なので
共有スペースでテレビを見る、院内の廊下を徘徊する、部屋で寝る
ぐらいしかすることは無い。

この時の自分は、他の患者と接触しようという気は全く無かった。多くの患者が統合失調症か痴呆症で、失礼ながら動物園にいるようだった。

逆に医師や看護士などスタッフの人にも自分から話しかけることは無かった。
自分にすっかり絶望してしまっていた私は、まともに生活してる彼等とは、恥ずかしくて関わることは出来なかった。

と言うわけで自由時間はほとんどベットに寝転んていた。
恐らく一日20時間以上は寝転んて過ごしていただろう。

つづく

私は今年の4月から6月まで
約三ヶ月間、精神病院に入院していた。

入院の原因は詳しく書けないが、
うつ病が悪化して妻の手に負えなくなった
というのが簡単な理由です。

その時空きがあって入院したのは、
東京郊外の個人経営のそこそこ大きい、
しかしかなり古びた病院でした。

そこでの生活を忘備録代わりに書きます。

同じフロアに入院患者が5、60人はいただろうか。
患者を見てると、精神科と言うよりも
7割方老人ホームだった。
きっと老人ホームに入れるよりも、こんな精神病院にぶちこんだ方が安くて済むのだろう。

同世代か歳下と思われる人は2、3人のみ。
そんな彼等は四六時中歌いながら徘徊するなど、とてもコミュニケーションできるような相手ではなかった。

入院中、親しくしゃべるようになった患者が一人だけいた。
その人はバングラディッシュ人の男性。年は自分より3つぐらい若かった。
彼は日本語を完璧にしゃべり、誰とでも親しげに明るく話す人だった。
話を聞いていると、きっと仕事もできるんだろうなぁと思った。

そんな彼が何故こんなところに来たのか。
仕事に集中しすぎたのか、感覚が敏感になってしまって、
外国人だから好奇の目で見られることや、少しの音でもやたら
気になるようになってしまって寝れなくなったとのこと。
看護婦をしている奥さんの勧めでここに来たと語っていた。

当たり前のことだが、こういうまともな人はすぐに回復して、
たった2週間ほどで退院していった。

入院3ヶ月中、話相手がいたのはたったの2週間だった。

長くなるので続きはまた。

娘のこと。

今年は彼女の人生最初の受験生です。
(最初で最後になればいいのだけれど)

自分の子だとは思えないほど、学業の成績は良く努力家です。
ただ、彼女が進学先として希望する学校はあまりにもレベルが高く、
今のところ模試の成績は当落線上をうろうろしている。

今年初めから塾に通い、毎日勉強三昧で睡眠時間も少ない。
塾では毎日のように実力テストがあり、
週に一回は不安が高じて泣き出しています。
折れそうなところでぎりぎり踏ん張っている感じである。

自分が受験の時はこんなに壮絶な受験じゃなかった。
(だから大した学校に行けなかったんだが)

数学の問題などを時々見るんだけど、
難し過ぎて手に負えない。。。

娘のこの苦しみは来年2月まで、あと5ヶ月弱続く。
苦労が報われて早く解放されることを祈り続けている。
娘が合格してくれるなら、正直自分は死んでもいいと思う。

そんな中、休職中の自分は、
簡単な家事をする以外はぼーっとしている。
きっと軽蔑されているだろう。
受験に失敗したら、きっと自分のせいだ。
それだけのことをしてしまったのだから。

早く赴任先に戻らなければならない。

休職中の自分のことを書くには、まだ心の準備がいる。

家族のことを先に書いてみます。
ブログを中断する最後に、妻が乳癌になったと書きました。

妻は3月に乳房の全摘手術を受けました。
今はエキスパンダーという器具を入れ、再建進行中です。
再建が完了するのは来年の春頃の予定。
仕事にも4月頃から復帰しています。

一応順調に治療は推移していることになりますが、
異物を乳房に入れているので、違和感は常にあり、
寝返りもうてず、手が上にあがらなかったり、
時々痛みを感じたり、
とストレスは多いようで、気の毒です。
再建が終わったとしても、再発の恐怖は常にあるし。

現在無職の自分が少しでも家事の助けになれば良いのだけど、
中途半端にしかできないので、逆にストレスを増やしている気がする。

この病気だけで妻には十分負担になっているが、
自分がやったことで妻にはさらに心に傷を負わせてしまった。
その上、この一年は娘のことも心配でしょうがなく
本当に気苦労の絶えない日々を送っています。
両親は他界しているので、愚痴を言う相手もいない。

自分と結婚しなかったらこんなに辛い目には合わなかっただろうに。。。
と思ったりする。

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