1年前の今頃はラグビーのワールドカップが佳境に入ってた頃でした。
まさか1年後には世界中がこんな真っ暗闇の地獄になるとは誰も思わなかったことでしょう。
去年より良い目を見れてるのは吾峠呼世晴ぐらいでしょうか。
しかしなんちゅう名前や。。この人まだ30歳位らしい。

さて、ダラダラと書いている転落人生の振り返り。

40歳位で自分は人類の最底辺だという真実に気付く。
それでもまだ子供が小さかったので嫌々ながら働きながら生きていました。
そのうち東京に転勤になり(もちろん家族で転居)、周りのレベルはさらに上がりどうにもならなくなりつつあります。
東京生活1年半過ぎた頃、転機が訪れる。

当時私は関連子会社に転籍させられていたが、その会社が業績悪化で経営破綻寸前になり、早期退職の募集を始めた。
その前にも2回募集はあったが、年齢で対象に入ったのがこの44歳の時初めてでした。
割増退職金も結構な額だった。
渡りに船、と私は応募しました。
反対する家族の声はもう耳に入らなかった。。
この機会に辞められないのなら、死んでしまおうとまで仕事で追い詰められていたから。
ちなみにその頃、妻の母親は末期の肺癌でいつ逝くかわからない状態。
にも関わらず、私はもう自分が逃げることしか考えられなかった。

しかし、早期退職は叶わなかった。
応募者があまりにも多すぎ、退職金が払えなくなった会社は、40代の応募者に限り親会社に転籍という形で無理矢理引き取らせたのだった。
それを拒否して何が何でも辞めるという選択肢もあったが、泣いて懇願する家族を振り切る気力は私には無かった。
ちなみにその子会社は今も潰れずに存続しています。

行き先は親会社の西日本、中国地方の地方都市。
もちろん単身赴任を選んだ。
どうせ挫折してすぐ辞めて帰るに決まっている。いや、帰れたらまだ良い。たぶん自殺するだろう。
そう思いながら赴任しました。
単身赴任をするということは、将来家庭が崩壊することを容認したということ。たぶん妻もそれをわかっていたはず。
ちなみにその直前に義母は永眠。

赴任後は100%予想した通りだった。
やったことのない設計職に入れられ、もちろん挫折する。
3ヶ月ぐらいで鬱状態になり会社を休みがちになり、5ヶ月後ぐらいには首を吊りました。
ちなみにその直前、妻は乳癌になり、片乳を全摘しました。

詳細は省きますが、自殺は失敗に終わり、7ヶ月程鬱病で休職した後、職場復帰する。
前職の設計とは同じフロアながら仕事は企画職に変えてもらえた。
企画職と言いながら、実態は取りまとめの便利屋、パシりのような仕事です。
本来メンタル不調で休職した人は以前と同じ職場に復帰することになっている。
そうしないと皆仮病で休職するからである。
自殺されて新聞沙汰になったらたまらん、という理由で私の場合は例外的に業務内容を変えてもらえたのかも、と推測します。

そういうある意味閑職のような仕事をその後退職するまで7年半続けることになります。

クソみたいに内容がからっぽの回想ですが、疲れてきたので続きはまた後日。
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